松尾芭蕉の弟子、その中でも
優れた十人の俳人を蕉門十哲と云いますが
その蕉門十哲の一人が、江戸中期に
江戸から京都へ上った時の句
約320年前のモノが、当工房へやって来ました
俳句の内容は
京都の島原の周りは藍畑だらけだったという内容。
当時の島原とはぎりぎり洛中にありますが
島原西門の通りを境に西へ跨ぐと洛西にあたります
近代的になる程
京藍は洛南と言われてますが
当時の島原から近いのは洛南より洛西でした
“島原の外は藍畑が広がっていた”
その12年後の文献 和漢三才図会(1712) には
藍は京洛外の産と書かれているので
洛中ではない事がわかります
(現物が見たい方は、工房でおっしゃってください)
島原から洛南は距離的に洛西よりかは遠いので
洛南だとすると島原と藍畑の距離がそこそこあり
そんなに畑が目立つはずもなく
俳句は生まれてないかと思います。
上記の事から、島原と隣接していた
洛西が京藍の産地だった事を示す貴重な俳句
洛西で当時の栽培方法にこだわり復活させた意義があります。
蕉門十哲の一人が
当時の京藍畑をその目で見て直筆で描いた
江戸時代当時の現物が
300年以上の時を経て僕の元にやってきた
伝統をそのまま守り続けるべき
とは1mmも思ってませんが
何をするにも土台は必要です
土台のない我流は
どこまでいっても型なし
いつまで経っても”型破り”にはならない
伝統に寄せた物づくりをする必要はないですが
歴史を深く自分の中に落とし込み
カルチャーを背負った上で
自分にしかできないものや色を
これからも生み出していきます